20歳の子爵家令嬢――オリビア・フォード。
背中まで届くダークブロンドの髪に、グレイの瞳の彼女は貴族令嬢でありながら地味で目立たない存在だった――
――7時半
いつものようにオリビアはダイニングルームに向って歩いていた。途中、何人かの使用人たちにすれ違うも、誰一人彼女に挨拶をする者はいない。
使用人たちは彼女をチラリと一瞥するか、これみよがしにヒソヒソと囁き嫌がらせをする者たちばかりだった。「いつ見ても辛気臭い姿ね」
突如、オリビアの耳にあからさまな侮蔑の言葉が聞こえてきた。思わず声の聞こえた方向に視線を移せば、義妹のお気に入りの2人のメイドがこちらをじっと見つめている。
「あー忙しい、忙しい」
「仕事に行きましょう」目が合うと2人のメイドは視線をそらし、そのまま通り過ぎて行った。
「ふん、この屋敷の厄介者のくせに」
一人のメイドがすれ違いざまに聞えよがしに言い放った。
「!」
その言葉に足が止まりメイド達を振り返ると、楽しげに会話をしながら歩き去っていく様子が見えた。
「はぁ……」
小さくため息をつくと、再びオリビアはダイニングルームへ向った――
ダイニングルームに到着すると、既にテーブルには家族全員が揃い、楽しげに会話をしながら食事をしていた。
「そうか、それでは騎士入団試験に合格したということだな?」
父親が長男のミハエルと会話をしている。
「はい。大学卒業後は王宮の騎士団に配属されることが決定となりました」
「そうか、それはすごいな。私も鼻が高い」
「お兄様、素晴らしいですわ」
ミハエルとは腹違いの妹、シャロンが笑顔になる。
そこへ、遅れてきたオリビアが遠慮がちに声をかけた。「おはようございます……遅くなって申し訳ありません」
しかし彼女の言葉に返事をする者は誰もいないし、椅子を引いてくれる給仕もいない。
テーブルの前には既に食事が並べられており、オリビアは無言で着席した。
食事の席に遅れてくるのには、理由があった。それは彼女だけが家族から疎外されていたからだ。 父親からは疎まれ、3歳年上の兄ミハエルからは憎まれている。義母からは無視され、15歳の異母妹からは馬鹿にされる……そんな家族ばかりが集まる食卓に就きたいはずはなかった。 そこで出来るだけ遅れて現れるようにしていたのである。オリビアが静かに食事を始めると義母がよく通る声で自慢話を始めた。
「あなた、聞いて下さいな。シャロンは今度クラスの代表でピアノを演奏することになったのよ」
「それはすごいな。さすがは自慢の娘だ」
父親は嬉しそうにシャロンに笑いかけ、見向きもせずオリビアに尋ねた。
「そう言えばオリビア。先週試験結果が発表されただろう? 結果はどうだったのだ?」
「え?」
まさか父親から話しかけてもらえるとは思えず、オリビアは驚いて顔を上げた。その言葉にミハエル、義母、異母妹のシャロンも驚く。
「どうした? 何故答えない? まさか言えないほど酷い結果だったのか?」
鋭い視線をオリビアに向ける。
「い、いえ。そのようなことはありません、お父様。今回は試験を頑張りました。お陰で学年3位になれました」
父親に話しかけられたことが嬉しく、笑顔で答える。
しかし……。「なるほど3位か。つまり後2人、お前より優秀な人物がいるということだな」
父は冷たい言葉をぶつける。
「3位だから、何だというのだ」
ミハエルはそっけなく言い放つ。
「全く、たかが3位で偉そうにするなんて図々しいこと」
義母は憎しみを込めた目でオリビアを睨み、シャロンは黙って食事を口にしている。
「……申し訳ありません……」
オリビアは弱々しく俯いた。
「ところで、お父様。私、買って頂きたいドレスがあるのですけど」
シャロンが甘えた声を出し、父は目を細める。
「何が欲しいのだ?」
「はい、今度のお茶会で着るドレスなのですけど……」
もう、誰もオリビアを気に留めるものはこの場にいなかった。3人が楽しげに会話しながら食事をしている姿をオリビアは黙って見つめている。
(やっぱり、予想していた通りね……今更だけど)
一刻も早く食事を済ませて、この息苦しい場所からいなくなろう。
オリビアは一人、黙々と食事を進めた――
「それでは失礼いたします」朝食を終えたオリビアが席を立っても返事をするものは誰もいない。これもいつものことだ。オリビアは軽く会釈すると、そのままダイニングルームを後にした。廊下を歩くオリビアにすれ違う使用人たちは挨拶どころか、目を合わそうともしない。何故、彼女1人がこのような状況下に置かれているのか……それは彼女が、この屋敷では厄介者だったからだ――****オリビアの母は彼女を出産と同時にこの世を去った。愛する人を失った父と母親が大好きだった兄の喪失感は計り知れず、亡くなった原因をつくった怒りの矛先がオリビアに向けられたのだ。2人はオリビアと関わることを極力避け、彼女はメイドの手によって交代で育てられた。まだ幼かったオリビアは自分が何故父からも兄からも嫌われているのか理解できなかったが、心無いメイドの言葉で理由を知ることになる。『オリビア様のお母様は、あなたを産んだことで、亡くなってしまったのですよ』母が死んだ理由を知ったオリビアは少しでも自分を好きになってもらうために、父と兄に一生懸命愛嬌を振りまいた。絵のプレゼントや、花壇から花を摘んで花束にして渡そうと試みたが、2人は冷たい視線を投げつけるだけで受け取ってくれることは無かった。結局オリビアはプレゼントを渡すことは諦め、せめて2人と話をするときは笑顔になろうと決めた。たとえ相手にされなくても笑顔でいれば、いつかきっと2人は私を好きになってくれるはず――!そんな未来を思い描いていた矢先、父の再婚話が浮上したのである。相手の女性は当時まだ20歳になったばかりの男爵令嬢。父は彼女と再婚し……2年後、オリビアが5歳の時に異母妹となるシャロンが誕生した。 オリビアは妹の誕生に喜び、仲良くなるためにシャロンに近づいた。しかし、元からオリビアを良く思っていなかった義母がそれを許すはずなど無かった。徹底的にオリビアを遠ざけ、シャロンの前で罵倒する。そして見て見ぬふりをする父と兄。当然。シャロンもオリビアを馬鹿にするようになってしまったのだった――****「ふぅ……やっぱり自分の部屋は落ち着くわね……」部屋に戻ってきたオリビアはため息をつくと大学へ行く準備を始めた。彼女は現在、エリート貴族のみが通うことの出来る大学へ通っている。この大学は兄のミハエルすら通えなかった名門大学であり、そ
石畳の町並みを赤い自転車に乗って、颯爽とペダルをこぐオリビア。大学までの道のりは自転車で片道30分。決して近い距離では無かったが、御者の顔色を伺いながら馬車に乗せてもらうよりも余程気が楽だった。何より風を切って自転車をこぐのは気持ちが良い。いつものように正門を自転車で通り抜けると、学生たちの好奇に満ちた視線が向けられる。はじめはその視線が気まずかったが、今ではすっかり慣れてしまっていた。正門の隅の方に自転車を止めると、前方から友人のエレナが手を振って近づいてきた。彼女はオリビアの自転車に興味を持ったことがきっかけで友人になれた一人でもある。「おはよう、今日も自転車で通学してきたのね?」「ええ、だってとても良い天気じゃない。多分、この様子だと雨は降らないはずよ」空を見上げれば、雲一つ無い青空が広がっている。「それじゃ、教室に行きましょう」「ええ、そうね」エレナに誘われ笑顔で返事をすると、2人で校舎へ向って並んで歩き始めた。「あのね、オリビア。私も実はあなたにならって自転車を買ったのよ」「え? そうなの? それは驚きだわ」「これも全てあなたの影響ね。ようやく少しずつ乗れるようになってきたところなの。やっぱりいつまでも、どこかへ行くのに、御者に頼るのっていやだったのよね。少しは自立出来るようにならないと」「……そうね」オリビアは曖昧に返事をした。家族関係が良好なエレナには自分の置かれた境遇をどうしても言えなかったのだ。(家族や使用人たちから冷遇されているので、馬車にも乗りづらくて自転車を使っているなんて絶対エレナには言えないわ。もしそのことを知れば、きっと気を使わせてしまうもの)「そう言えば、来月は秋の学園祭ね。後夜祭はダンスパーティーがあるけれど、パートナーはギスランと参加するのでしょう?」不意に話題を変えてくるエレナ。ギスランは同じ大学に通う同級生であり、親同士が決めたオリビアの婚約者でもあった。「ギスランがパートナーになってくれるかどうかは……まだ分からないわ」オリビアの顔が曇る。「あら? どうしてなの?」「それ……は……」オリビアはそこで言い淀む。なぜならギスランはここ最近、急激に大人っぽくなった異母妹のシャロンに夢中になっていたからだ。オリビアに会いに来たと言っては、シャロンと2人だけでお茶を楽しむような関
「何を怒ってらっしゃるのですか? ディートリッヒ様」侯爵令嬢アデリーナは真っ直ぐにディートリッヒを見つめている。「お前は俺が何故怒っているのか分からないのか!?」ディートリッヒはアデリーナを指さした。「ええ、分かりませんから尋ねているのです。それはさておき……ディートリッヒ様」キッとアデリーナはディートリッヒに鋭い目を向ける。「な、何だ?」「いくらなんでも、人を指差すのはどうかと思いませんか? 礼儀という言葉を、もしやご存じないのでしょうか?」「何っ! おまえ、誰に対してそんな口を叩くんだ! 仮にも俺は……!」「ええ、ディートリッヒ・バスク侯爵。私の婚約者ですわよね? それなのに何故でしょう? 私よりも、そちらの令嬢と親しげに見えるのですが」そして栗毛色の女子学生を見つめた。「こ、怖い! ディートリッヒ様!」女子学生は咄嗟にディートリッヒの背後に隠れた。「大丈夫、俺がついている。サンドラ」サンドラと呼ばれた女子学生を慰めるように髪を撫でると、再びアデリーナを指さすディートリッヒ。「そんな目付きの悪い目で睨みつけるな! サンドラが怖がっているだろう!」「別に睨みつけてなどいませんわ。私は元々このような目つきですから。ですが先ほども申し上げましたが、あまり2人きりで学園内を歩き回られないようにお願いいたします。一応、私とディートリッヒ様は婚約者同士なのですから」「な、何だと……大体、お前と俺は親同士が勝手に決めた婚約者なだけであって、お前のことなんか認めていないからな!」「別に認めていただかなくても、私は一向に構いませんが?」「な、何だって!? 全く本当に可愛げのない女だ。サンドラ、あんな女は放っておこう」「はい、ディートリッヒ様」ディートリッヒはサンドラの肩を抱き寄せると、去っていった。「……全く、呆れた男ね。私達の婚約は覆すことなど出来ないのに」アデリーナは気にする素振りもなく、踵を返し……。「あら?」ことの一部始終を物陰から見ていたオリビアとエレナに鉢合わせしてしまった。「「あ……」」3人の間に気まずい雰囲気が流れる。「あなたたちは……?」怪訝そうに首を傾げるアデリーナ。すると――「た、大変申し訳ございませんでした! 中庭で大きな声が聞こえたので、つい何事かと思って……決して覗き見をしようとしていたわけ
その日の昼休みのこと――オリビアとエレナが大学内に併設されたカフェテリアで食事のお茶を飲んでいるときのことだった。「え? 何て言ったの? オリビア」ココアを飲んでいたエレナが首を傾げる。「だから、アデリーナ様とお近づきになるにはどうしたらいいのかと相談しているのよ」オリビアは紅茶を口にした。「お近づきになるなんて……あの方は4年生で、しかも侯爵令嬢なのよ? 私達みたいな子爵家の者が迂闊に近づけるような方じゃないわ。しかもね……」エレナは辺りをキョロキョロ見渡し、オリビアに顔を近づけてきた。「アデリーナ様って、気が強いことから……一部の女子学生たちから恐れられているの。どうやら悪女って言われているらしいわ」「悪女ですって!」驚きでオリビアの口から大きな声が飛び出す。その言葉に周囲に座っていた学生たちが一斉に2人に注目する。「ちょ、ちょっと! 声が大きいわよ! 周りに聞こえるじゃないの!」エレナが小声で注意した。「ごめんなさい。ちょっと驚いてしまって……でも、何故悪女と呼ばれるのかしら。自分の婚約者が他の女性と一緒にいれば注意するのは当然だと思うけど……」オリビアは婚約者と妹の仲が良いのに、咎めることが出来ない自分と比較する。「そう言えば、オリビア。今朝、ギスランが後夜祭のダンスパートナーになってくれるか分からないと言ってたけど……最近、どうしてしまったの? 以前は大学内で時々一緒に行動していたのに、最近はさっぱりじゃないの。もしかして何かあったの?」「それは……」エレナに今の自分の現状を説明しようか、迷ったそのとき。「あれ? その後ろ姿……もしかして、オリビアじゃないか?」不意に背後から声をかけられた。「え?」振り向くと、婚約者のギスランが友人たちと一緒にいた。「ギスラン!」婚約者から声をかけられたことが嬉しくてオリビアは立ち上がり、笑みを浮かべる。「ちょうど良かった。今度の休みに、またお邪魔しようかと思っていたんだ。都合は大丈夫そう?」「そうだったのね? ええ、勿論大丈夫よ」笑顔のままオリビアは頷き……次の瞬間、凍りつくことになる。「そうか、ではシャロンによろしく伝えておいてくれ」「!」オリビアの肩がビクリと跳ね、エレナの息を呑む気配が伝わってくる。「え、ええ。あなたが来るから家にいるようにってシャロン
――16時本日全ての講義が終わって帰り支度をしているオリビアに、エレナが声をかけてきた。「それじゃ、オリビア。また明日ね」「ええ、また明日」エレナは手を振ると、急ぎ足で去って行った。教室の入口には彼女の婚約者、カールが待っている。「……2人で一緒に帰るのね。デートでもするのかしら?」ポツリとつぶやき、ギスランの顔を思い浮かべた。オリビアとギスランは子供時代から婚約者していたが、一度も一緒に登下校したこともなければ2人きりで出かけたこともない。ただ月に数回、学校が休みの週末にだけ顔合わせという名目でどちらかの屋敷で会うだけだった。その際、特に会話をするわけでもない。同じ空間にいれば良いだけなので、ギスランはいつも持参した本を読み、オリビアを相手にしようとはしない。そこでオリビアは出来るだけ読書の邪魔にならないように、気を使って静かに刺繍をして過ごし……時間になるとギスランは帰って行く。そんな関係がずっと続いていた。本当はもっとギスランと仲良くなりたいと思っていた。しかし、相手がそれを望んでいない以上どうすることも出来なかった。どうせいずれは結婚するのだから、2人の関係もそのうち変わって来るだろうとオリビアは割り切ることにしたのだが……シャロンが15歳になった頃から変化が起こり始めた。気づけばギスランとシャロンが急接近し、オリビアとの距離が遠のいていたのだ。2人はオリビアが気づかない間に親密になり……今では隠すこと無く堂々と一緒に過ごすようになっていた。それが、たとえオリビアの眼の前であろうとも。「……仕方ないわね。シャロンは私と違って、可愛らしくて魅力的だもの……」ポツリとつぶやき、自分のダークブロンドの髪にそっと触れる。シャロンの髪はオリビアと違い、眩しく光り輝くようなプラチナブロンドだった。瞳は深い海のような青い色。容姿だけでは、どれもオリビアには敵わない。ただ、シャロンより秀でていることがあるとすれば頭の良さだけだったろう。オリビアは才女だったが、シャロンはそれほど賢くは無かった。だが、頭の良い女性は男性からは敬遠されがちだった。「婚約解消されるのも時間の問題かもしれないわね……そして代わりにシャロンと……」ため息をつくとオリビアは立ち上がり、教室を後にした――**** オリビアは大学の図書館を訪れていた。家
(どうしてアデリーナ様がここに……? 今まで一度も図書館で出会ったことがないのに)躊躇っているとアデリーナがオリビアの姿に気付き、声をかけてきた。「本を借りに来た方ですか? どうぞ」「は、はい……」オリビアは呼ばれるままに貸出カウンターに来ると、自分の借りようとしている小説が何だったかを思い出した。(そうだった……! この本は恋愛小説だったわ。アデリーナ様のように知的な女性の前でこんな本を借りるなんて……軽蔑されてしまうかも!)「では、貸出手続きを行うので本を貸していただけますか?」アデリーナは笑顔で話しかけてくる。こんなことなら歴史小説でも借りれば良かったとオリビアは後悔したが、今更引き返すことなど出来ない。「お願いします……」恐る恐る抱えていた本をカウンターに置いた。するとアデリーナは笑顔になる。「まぁ、あなたもこの本を借りるのですか? 私も以前読んだことがあるのですよ。とてもロマンチックな恋愛小説でした。お勧めですよ?」「え? ほ、本当ですか?」まさか借りようとしていた本をアデリーナが読んでいたことを知り、オリビアは嬉しい気持ちになった。けれど、自分のことを全く覚えていない様子に少し寂しい気持ちもある。「ええ、夢中になって頁をめくる手が止まらずに、3日で読み終わってしまいました。では、貸出カードに名前を書いて下さい」「はい。分かりました」オリビアは卓上のペンを手に取ると、名前を書いた。「お願いします」貸出カードに名前を書いて、アデリーナに差し出した。「オリビア・フォードさんですね? 貸出期間は2週間になります。では、どうぞ」アデリーナから本を受け取ったものの、オリビアはまだ話がしたかった。「あ、あのアデリーナ様!」「え? どうして私の名前を?」「私のこと、覚えておりませんか? 今朝、友人と中庭でお会いしたのですけど」その言葉に、アデリーナはじっとオリビアを見つめ……。「あ、思い出したわ! 何処かで会ったような気がしていたけれど、今朝会っていた人だったのね?」「はい、そうです。私のこと思い出していただき、嬉しいです」「今朝はお恥ずかしいところを見せてしまったわね。ただでさえ私はこの赤毛のせいで悪目立ちしているのに。本当にいやになってしまうわ」アデリーナは自分の髪を見つめて、ため息をつく。「あの、アデリー
その日から、オリビアは放課後毎日図書館に通うようになった。試験期間中以外は放課後に図書館に来るような学生は滅多にいない為、アデリーナとオリビアの2人きりの空間になっていた。はじめの頃はアデリーナと本について話をするようになっていたが、2人の親交が深まるに連れ、徐々に踏み込んだ話へ変わっていったのだった……。――放課後、帰り支度をしていると隣の席のエレナがオリビアに声をかけてきた。「オリビア、今日一緒に途中まで帰らない? 私、実は自転車で通学してきたのよ」「え? エレナ……もう自転車を乗りこなせるようになったの? 驚いたわ」「フフフ。自転車に乗る練習にはカールに付き合ってもらったわ。彼のおかげね」「そうだったのね? でももう自転車で通学してくるなんてすごいわ」「でしょう? 自転車って気持ちいいわね。風を切ってスイスイ走る爽快感は素敵だわ。だから2人で自転車に乗って帰らない? 途中、どこか喫茶店に寄りましょうよ」それは、とても素敵な誘いだった。けれど……。「ごめんなさい、エレナ。実は今日、約束があるの」今日、アデリーナは図書委員が休みの日だった。そこで、2人で大学構内に設けられたカフェテリアでお茶を飲むことにしていたのだ。「そうだったのね……あ、もしかしてギスランと約束しているの? 良かったじゃない」「いいえ、違うわ。アデリーナ様とよ」「そう、アデリーナ様と……ええっ!? そ、その話本当なの!?」エレナは大げさに驚く。「ええ、本当よ。そんなに驚くことかしら?」「もちろん、驚くことに決まっているでしょう? だって、あのアデリーナ様よ? 侯爵令嬢であり、あの……悪女と名高い」「悪女というのは誤解よ。それはね、婚約者のディートリッヒ様があらぬ噂話を広めているだけに過ぎないのよ。何しろディートリッヒ様は他に想い人の女性がいるから」「それは、そうかもしれないけれど……でも……」「エレナ……」オリビアがじっと見つめると、エレナは頷いた。「分かったわ、他ならぬ親友のオリビアの話だから信じるわ。約束があるなら仕方ないわね、カールと帰ることにするわ」「ごめんなさい、エレナ」「いいのよ、それじゃまた明日ね」「ええ、また明日」エレナは手を振り、教室を出て行った。「私もアデリーナ様との待ち合わせ場所に行かなくちゃ」そしてオリビアも待ち
「ところで、アデリーナ様。もうすぐ学園祭ですけど、後夜祭には参加されるのですか?」オリビアはミルクティーを飲みながら尋ねた。「ええ、今年最後の後夜祭だから参加するわ」「それでは、パートナーはどうされるのですか?」オリビアは自分自身もパートナーのことで悩んでいたのでアデリーナのことが気になったのだ。「一応、婚約者がディートリッヒだから彼がパートナーになる予定なのだけど……恐らく無理かもしれないわ。それに何だか嫌な予感がするし……」「嫌な予感? それって……」「いいえ、何でもないわ。それより、オリビアさんはどうなの? 確か婚約者がいたはずよね?」アデリーナには婚約者がいる話はしていたが、詳しい事情はまだ説明したことは無かった。「は、はい。そのことなのですが……実は……」ついにオリビアは全てを告白することにした。婚約者のギスランは15歳の異母妹に夢中なこと。 父親からは疎まれ、3歳年上の兄ミハエルからは憎まれている。義母からは無視され、15歳の異母妹からは馬鹿にされていること。その為、使用人たちからも無視をされている……それら全てを告白したのだ。アデリーナはその間、一度も口を開くこと無く黙って聞いていたが……やがて話が終わるとミルクティーを一口飲み……。カチャッ!乱暴にティーカップを皿の上に置いた。「ア、アデリーナ様?」今まで一度も見せたことのない態度にオリビアは戸惑う。「……信じられないわ……一体、その話は何なの!? オリビアさんにそんな態度をとるなんて……許せないわ!」アデリーナの声が店内に響き、中にいた数人の学生客たちがギョッとした様子で2人を見つめる。「アデリーナ様。私の為に怒ってくださるのは嬉しいですが、私なら大丈夫ですから」「いいえ、少しも大丈夫じゃないわ。いい? オリビアさん。あなたのお母様が亡くなったのは、あなたのせいではないわ。こういった言い方はあまり良くないかもしれないけれど、そうなる運命だったのよ。それをあなたの家族たちは何て酷いことをするのかしら。こんなにオリビアさんは優秀なのに」憤慨した様子でアデリーナは続ける。「あなたのお兄様は、この学園に入学することすら出来なかったのでしょう? でもオリビアさんは入学し、学年で上位の成績を修めている。もっと誇るべきよ。なのに、何故そんな窮屈な思いをしているの?」
ランドルフ、ミハエル、ゾフィーが逮捕されて一カ月後――「オリビア様、お疲れ様です。お茶を煎れて参りました」専属メイドのトレーシーが紅茶を運んで書斎に現れた。「ありがとう、トレーシー」書類から顔を上げ、オリビアは笑みを浮かべる。「どうぞ」机の上に置かれた紅茶を早速口にした。「……美味しい、ありがとう」「いえ。それでお仕事の方はいかがですか?」「そうねぇ。学業との併用は中々大変だけど、領地を運営するのも当主である私の役目だから頑張るわ」 ランドルフもミハエルも不正を働いた罪で、フォード家は危うく爵位を取り上げられそうになった。しかし侯爵家のアデリーナの口添えと、フォード家に唯一残されたオリビアが優秀ということもあり、取り潰しが無くなったのである。そして今現在、オリビアがフォード家の女当主とし切り盛りしているのであった。「でも大学院にいかれないのは残念ですね」「あら、そんなことはもういいのよ」トレーシーの言葉に、オリビアは首を振る。「え? よろしいのですか?」「勿論よ。第一、私が大学院に行こうと思っていたのは、家族や私を見下す使用達と暮らしたくは無かったからよ。けれど家族は一人残らず出て行ったし、私を見下す使用人はもう1人もいないわ」「ええ、確かにそうですね。今や、この屋敷の使用人達は全員、オリビア様を尊敬しておりますから」「そういうこと。だから、もうこの家を出る必要が無くなったのよ。それに大学院にいこうとしていたのはもう一つ理由があるのよ。より高い学力があれば、就職に有利でしょう? だけど今の私はフォード家の当主という重要な立場にあるの。つまり、もう仕事も持っているということになるわよね?」「ええ、確かにそうですね。ところでオリビア様、本日は卒業式の後夜祭が行われる日ですよね? そろそろ準備をなさった方が良いのではありませんか?」書斎の時計は15時を過ぎたところだった。後夜祭は19時から始まる。「そうね。相手の方をお待たせしてはいけないものね。トレーシー、手伝ってくれる?」「ええ。勿論です」トレーシーは笑顔で頷いた――****――18時半ダークブロンドの長い髪を結い上げ、オレンジ色のドレスに身を包んだオリビアは後夜祭のダンスパーティーが行われる会場へとやって来た。既に色とりどりの衣装に身を包んだ学生たちが集まり
大学から帰宅したオリビアは異変を感じた。屋敷の前に見たこともない馬車が3台も止められているのだ。「あら? あの馬車は一体何かしら?」いやな予感を抱きながら、扉を開けて驚いた。エントランスには大勢の使用人が集まっていたのだ。「あ! オリビア様! お帰りなさいませ!」「お待ちしておりました! オリビア様!」使用人達が口々にオリビアに挨拶してきた。「ただいま。一体、これは何の騒ぎなのかしら?」すると一番古株のフットマンが手を上げた。「私から説明させて下さい。実は先程、警察の方達がいらしたのです」「え!? 警察!? ど、どうして警察が……って駄目だわ、思い当たることが多すぎるわ」片手で額を抑えてため息をつく。今は屋敷を追い出されてしまったが、義母のゾフィーは違法賭博にのめりこんでいた。兄のミハエルは裏金を積んで王宮騎士団に裏口入団し、父ランドルフは裏金を貰って、でたらめなコラムを書いていたことで閉店に追いこんだ飲食店もあるのだ。「それでは、屋敷の前に止められた馬車は警察の馬車ということね? それで警察の人達は何処にいるのかしら?」「はい、皆さんは旦那様とミハエル様、それにゾフィー様の部屋にいらしています」「何ですって!? 全員なのね!? もしかしてお父様だけかと思っていたけれど……とにかく、挨拶に行った方が良さそうね」そのとき。「いえ、それには及びませんよ」背後で声が聞こえて、オリビアは振り返った。すると10人以上の警察官が、紙袋やら箱を手にしている。「失礼、あなたはこちらの御令嬢でいらっしゃいますか?」先頭に立ち、口ひげを生やした警察官がオリビアに尋ねてきた。「はい、私はこの屋敷に住むオリビア・フォードです」「留守中にお邪魔してしまい、大変申し訳ありません。実はフォード家の人々に買収と賭博の容疑がそれぞれかけられまして、証拠物を押収させていただきました」「そうでしたか。ご苦労様です」ペコリと頭を下げると、警察官は不思議そうにオリビアを見つめる。「あの、何か?」「いえ、随分冷静だと思いまして。驚かれないのですかな?」「ええ、勿論驚いています。それで証拠が見つかればどうなりますか?」「勿論賭博も買収も犯罪ですからね。逮捕されるのは時間の問題でしょう。既にランドルフ氏は連行されていきましたから」その言葉に、オリビアはニ
その日の昼休みのことだった。「アデリーナ様!」大学併設のカフェテリアで待ち合わせの約束をしていたオリビアは、こちらに向かってくるアデリーナに笑顔で手を振った。「オリビアさん、遅れてごめんなさい」小走りで駆け寄って来たアデリーナが謝罪する。「そんな、謝らないで下さい。私もつい先ほど到着したばかりですから」本当はアデリーナに会うのが待ちきれずに15分程早く到着していたが、そこは内緒だ。「フフ、そうなの? それじゃ中へ入りましょうか?」「はい!」オリビアは大きく返事をすると、2人は店の中へ入った。「あら、結構混んでいるのね?」カフェテリア内は多くの学生たちで溢れ、空席が見当たらなかった。「その様ですね。アデリーナ様、他の店に行きましょうか?」そのとき。「アデリーナ様! 私達もう食事が終わったので、こちらの席をどうぞ!」すぐ近くで声が聞こえた。見ると、2人の女子学生が食事の終わったトレーを持って手招きしている。そこで早速、オリビアとアデリーナは女子学生たちの元へ向かった。「どうも私たちの為に席をありがとうございます」「ありがとうございます」アデリーナが丁寧に挨拶し、オリビアも続けて挨拶した。「いいえ、私達アデリーナ様のファンですから」「お役に立てて嬉しいです」女子学生たちは笑って去っていき、その姿をオリビアは呆然と見つめていると、アデリーナが声をかけてきた。「オリビアさん、食事を選びに行きましょう」「は、はい!」返事をしながらオリビアは思った。アデリーナのような人気のある女子学生と、子爵家の自分が一緒にいてもいいのだろうか――と。** 食事が始まると、早速話題はミハエルの話になった。ミハエルがアデリーナの兄、キャディラック侯爵にズタボロにされ、王宮騎士団をクビにされたこと。帰宅してみると大泣きしして暴れた後に、開き直って引きこもり宣言をしたものの、父から『ダスト村』への追放宣言を受けた事。そして夜明け前に幾人かの使用人を連れて旅だったことをかいつまんで説明した。「まぁ! たった1日でそんなことがあったのね? でも、何だか申し訳ないわ……オリビアさんのお兄様が追放されたのは、兄のせいなのだから」アデリーナは申し訳なさそうにため息をつく。「そんな! アデリーナ様は何も悪くありません。私が望んだことですし、そ
いつものように自転車に乗って大学に到着したオリビア。1時限目の授業が行われる教室へ行ってみると、入り口付近にマックスがいた。彼はオリビアの姿を見つけると、笑顔で手を振ってくる。「オリビア!」「おはよう、マックス。どうしてここにいるの? ひょっとして同じ授業を受けていたかしら?」「いいや、俺はこの授業を受けていない。オリビアを待っていたのさ」「そうだったのね。でも良かったわ。私も丁度あなたに会いたいと思っていたのよ」「え? 俺にか?」「ええ、そうよ!」そしてオリビアはマックスの右手を両手でしっかりと握りしめた。「お、おい! どうしたんだよ?」顔を赤らめて狼狽えるマックス。「ありがとう! 全て貴方のお陰よ! 感謝するわ」「え? 俺のお陰……?」「そうよ。父が裏金を受け取って、全くでたらめなコラムを書いていたことを暴露してくれたのでしょう?」「まさか……もう新聞に載っていたのか!?」「ええ、今朝食事の席で父が新聞を凝視していたのよ。何を読んでいるのかと思えば、自分に関する記事だったのよ。散々な事を書かれていたわ。コラムニストの職を失ったばかりか、この町全ての飲食店を出入り禁止にされたそうなの。それが一番ショックだったみたいね」「そうか……実は新聞社の知り合いに記事の件を頼んだと伝える為にオリビアを待っていたんだが、まさかもう記事になって出回っていたとは思わなかったな」マックスは感心したように頷く。「もしかして、薄々気付かれていたんじゃないかしら? それですぐ記事にすることが出来たのよ。そうに違いないわ」「やけに嬉しそうだな。だけどオリビアはそれでいいのか?」「え? 何のことかしら?」「決まっているだろう? 仮にも父親だろう? 自分の親が窮地に立たされているのに、オリビアはそれで大丈夫なのか?」「ええ、勿論よ」「げっ! 考える間もなく即答かよ……」「だって私は生まれた時からずっと、フォード家で酷い扱いを受けてきたのよ。父からは無視され、兄からは憎まれ、義母や義妹に使用人達すら私を馬鹿にしてきたのよ。だからもうフォード家がどうなっても構わないわ」「そうか……中々闇が深いんだな」腕組みしてマックスが頷く。「だからアデリーナ様には本当に感謝しているの。私が変われたのは、あの方のお陰だもの」「なるほどな……それじゃ、俺は…
「そう言えばお父様。先程熱心に新聞を読んでおられましたが、何か気になる記事でもあったのですか?」珍しく食後のお茶を飲みながら、オリビアはランドルフに尋ねた。「ギクッ!」ランドルフの肩が大きく跳ねる。「ギク……? 今、ギクと仰いましたか?」「あ、ああ……そ、そうだったかな……?」かなり動揺しているのか、ランドルフは自分のカップにドボドボと角砂糖を投入し、カチャカチャとスプーンで混ぜた。「あの、お父様。さすがにそれは入れ過ぎでは……?」しかし、ランドルフは制止も聞かず、グイッとカップの中身を飲み干す。「うへぇ! 甘すぎる!」「当然です。先程角砂糖を7個も入れていましたよ。それよりもその動揺具合……さては何かありましたね? 一体何が新聞に書かれていたのですか?」オリビアはテーブルに乗っていた新聞に手を伸ばす。「よせ! 見るな!」当然の如く、新聞を広げて凝視するオリビア。「……なるほど……そういうことでしたか」新聞記事の中央。つまり一番目立つ場所にはランドルフの顔写真付きの記事が載っていた。『ランドルフ・フォード子爵、別名美食貴族。裏金を受け取り、実際とは異なる飲食店情報を記載。被害店舗続出』大きな見出しで詳細が詳しく書かれている。(マックス……うまくやってくれたみたいね)オリビアは素知らぬ顔でランドルフに尋ねた。「お父様、こちらに書かれている記事は事実なのですか?」「……」しかし、ランドルフは口を閉ざしたままだ。「お父様、正直にお答えください」すると……。「そう、この記事の言う通りだ! 私は『美食貴族』として界隈で名高いランドルフ・フォードだ! 私のコラム1つで、その店の評判が決まると言っても過言では無い! 店の評判を上げて欲しいと言ってすり寄ってくるオーナーや、ライバル店を潰して欲しいと言って近付く腹黒オーナーだって掃いて捨てる程いる! だから私は彼らの望みを叶える為にコラムを書いてやった! これも人助けなのだよ!」ついにランドルフは開き直った。「それなのに……一体、どこで裏金の話がバレてしまったのだ……? そのせいで、もう私は『美食貴族』の称号と、コラムニストの副業を失ってしまった。それだけではない、この町全ての飲食店に出入り禁止にされてしまったのだよ! もし入店しようものなら……け、警察に通報すると! もう駄目
翌朝――朝食の為にオリビアがダイニングルームへ行くと、既にランドルフが席に着いて新聞を食い入るように見つめていた。食事の席は父とオリビアの分しか用意されていない。オリビアが席に着いてもラドルフは気付かぬ様子で新聞を読んでいる。(一体、何をそんなに熱心に読んでいるのかしら?)訝しく思いながら、オリビアは声をかけた。「おはようございます、お父様」「え!?」ランドルフの肩がビクリと大袈裟に跳ね、驚いた様子で新聞を置いた。「あ、ああ。おはよう、オリビア。それでは早速食事にしようか?」「はい、そうですね」そして2人だけの朝食が始まった――「あの……お父様。聞きたいことがあるのですが、よろしいですか?」食事が始まるとすぐにオリビアはランドルフに質問した。「何だ?」「今朝はお兄様の姿が見えませんね。まさか、もうここを出て行かれたのですか?」「そのまさかだ。ミハエルは夜明け前に自分が選別した幾人かの使用人を連れて、屋敷を去って行った。多分、もう二度とここに戻ることはあるまい」オリビアがその話に驚いたのは言うまでもない。「何ですって? お兄様が1人で『ダスト』村へ行ったわけではないのですか?」「私もミハエル1人で行かせるつもりだった。だが、あいつは絶対に自分一人で行くのは無理だと駄々をこねたのだ。身の回りの世話をする者がいなければ生きていけるはず無いだろうと言ってな。いくら言っても言うことをきかない。それで勝手にしろと言ったら、本当に自分で勝手に使用人を選別して連れて行ってしまったのだよ」そしてランドルフはため息をつく。「そんな……それでは誰が連れていかれたかご存知ですか?」「う~ん……私が分かっているの2人だけだな。1人はミハエルの新しいフットマンになったトビー。もう1人は御者のテッドだ。後は知らん」「えっ!? トビーにテッドですか!?」「何だ? 2人を知っているのか?」「え、ええ。まぁ……」知っているどころではない。トビーをミハエルの専属フットマンに任命したのはオリビア自身だ。そして御者のテッドは近々結婚を考えている女性がいるのだから。「何て気の毒な……」思わずポツリと呟く。「まぁ、確かに『ダスト』村は何にも無いさびれた村だ。だが、存外悪くないと思うぞ? トビーは身体を動かすのが大好きな男だ。あの村は開拓途中だからな、
「そ、そんな! それだけのことで追い出すなんて、俺は何処に行けばいいのです!? まだ卒業もしていないし、無職決定なのに! それに、第一俺がここを出て行ってしまったら誰がフォード家の後を継ぐのです!?」ワインの注がれたグラスを手にしたまま、喚くミハエル。かなり興奮しているのか、グラスのワインが今にもこぼれそうなほどに揺れている。「卒業だと!? お前はもう退学だ! もはやお前の居場所はここにはないのだ!」ランドルフがビシッとミハエルを指さす。「酷いじゃないですか! 来月卒業なのですよ? 中退なんて恥ずかしいです! せめて卒業くらいさせて下さいよぉ! 働き口を無くしてしまった哀れな息子を追い出さないで下さい! 俺がどこかで野垂れ死んでしまってもいいのですか!?」「黙れ! 大学に残る方が余程恥ずかしい事だと思わないのか!? 後ろ指をさされ、踏みつけ、詰られて石をぶつけられても良いのか!? 退学はお前の為でもあるのだ!」青筋を立てながら怒鳴るランドルフ。その様子をオリビアはワインを飲みながら冷静に見つめていた。(さすがにそこまではされないのじゃないかしら。でも中退させるのが兄の為だと言っているけれども……嘘だわ。きっと大学ヘそのまま通わせるのはお金がもったいないと思っているのよ)2人の言い合いはまだ続き、無言で食事を続けるオリビア。(全く、うるさい2人ね……さっさと食事を終わらせて退席しましょう)ランドルフもミハエルもワインを飲みながら口論するので、徐々にヒートアップしてきた。「分かりました……それでは百歩譲って、退学をするとしましょう。ではその後は? 追い出された俺は一体どこで暮らせばいいのです!」そしてミハエルはグイッとワインを飲み干す。「そんなのは知らん! ……と、言いたいところだが私もそこまで鬼ではない。ミハエルよ。お前には『ダスト』の村へ行ってもらう! あの村もフォード家の領地であることは知っているな!」「え……? 『ダスト』村……? ひょっとしてまだあの村が残っていたのですか!」ミハエルが目を見開く。『ダスト』村はの話はオリビアも聞いたことがある。フォード家は広大な土地を所有していたが、ぺんぺん草すら生えない荒地が半数を占めている。その中でも特に『ダスト』村は最も貧しい村だった。畑を耕しても、瘦せた土地ではサツマイモやジャガ
――その日の夕食の席のこと。フォード家では基本、食事は家族と一緒にという家訓の元、オリビアは嫌々ダイニングルームへやってきた。「よぉ、オリビア。待っていたぞ」テーブルには「引きこもり宣言」をした兄、ミハエルが陽気な声で挨拶してくる。既に引きこもり生活に突入したつもりでいるのか、襟元がだらしなく着崩れた姿の兄を見て、オリビアは眉を顰める。「お兄様、もうテーブルに着いていたのですね。お早いことで」嫌味を込めて言ったつもりだが、ミハエルには通用しない。「まぁな。俺は今日から引きこもりになると決めたから暇人なんだ。今や、一番の楽しみは食事になってしまった。だからいち早くここに来たと言う訳さ。それにしても見て見ろ。今夜は御馳走だぞ?」「確かにそうですね……」着席しながらテーブルに並べられた料理を見つめるオリビア。フォード家の食事はもともと豪華だが、今夜はいつも以上に豪華だ。しかも料理の品数も2~3品多い。(どうして今夜はこんなに食事が豪華なのかしら……? まるでお祝いの席みたい)そこまで考え、ハッとした。(まさか、お父様は兄が王宮騎士団から追放されて、引きこもり宣言をしたことに気付いていないのかしら?)「それにしても、一体今夜はどうしたっていうのだろう? まるで祝いの席の様だ。ひょっとして俺の引きこもり生活の門出を祝う席でも設けてくれたのだろうか? いや、流石にそれはないだろう。ハッハッハッ!」まるでアルコールで酔っぱらっているような兄に、オリビアは思いっきり軽蔑の眼差しを向けた。「お兄様……ひょっとして夕食の前から既にお酒を召されているのですか?」「失敬な! 今の俺はシラフだぞ。それは確かに……王宮騎士団をクビにされ、帰宅した直後に少々ワインは飲んだが……今はとっくに、酔いは冷めている!」「はぁ……そうなのですね」つまり、ミハエルがあれ程吠えていたのは、酔いも手伝ってと言う事だったのだ。「それより、父は遅いな……いつもならとっくに席に着いているのに……」ミハエルがそこまで口にしたとき。「待たせたな」父、ランドルフがダイニングルームに現れて着席した。「それでは、早速食事にしよう」ランドルフの言葉に給仕達が現れ、温かい料理を運んでくる。その様子を嬉しそうにミハエルは眺めているが、父は浮かない顔をしている。(変ね……いつものお
「成程、引きこもりですか……?」オリビアは吹き出しそうになるのを必死に堪えながら頷く。何しろ王宮騎士団に入れるのは、全員貴族と決められている。国王直属の騎士になるのだから、当然と言えば当然のこと。その貴族たちの前で恥をさらされたのだから、ダメージは相当のものだろう。王宮騎士団に入団すると言うのは、大変名誉なことだった。高学歴も必要とされ、大学を卒業見込みの者がまず試験を受ける権利を貰える。脳筋バカでは国王に仕える者として、失格なのだ。毎年入団試験を受ける者は1000人を超えると言われている。まず、最初の筆記試験で半数が落とされ、剣術の実技試験で更に半数。最後の面接で半数が落とされると言われている。「お兄様、正直に話して下さい。いつの段階で、裏金を支払ったのですか?」未だにグズグズ泣くミハエルに静かに尋ねるオリビア。「グズッ……そ、そんなの決まっているだろう? 筆記試験の……段階で、金を支払ったんだよ! 裏口入団に顔の利くブローカーを見つけて……ウグッ! 悪いとは思ったが、家の金庫に深夜忍び込んで……ウウウウッ! 後で返済しようと思って……ヒグッ! 拝借したって言うのに……何も、何もあんな大勢の前で俺を糾弾して、排斥することはないじゃないか! せめて、人目のつかない所でやってくれればいいのにぃぃっ!! 俺はもう駄目だ!! 引き籠るしかないんだよぉおおおっ!! 誰だっ!! 密告した奴は!! ちくしょおおおお!!」年甲斐もなく涙を流しながら吠えまくるミハエルに、もはやオリビアは呆れて物も言えない。(密告したのは私だけど……それにしても呆れたものだわ。実力も無いのに、王宮騎士団に入ろうとしたのだから自業自得よ)けれど、これではうるさすぎて堪らない。そこでオリビアはミハエルを慰めることにした。「落ち着いて下さい、お兄様。確かに恥はかいてしまいましたが、私はこれで良かったと思いますよ?」「何でだよ!! 何処が良かったって言うんだよぉお!!」「だって、考えてみて下さい。お兄様は実力も伴わないのに、高根の花である王宮騎士団に入ろうとしたのですよ? 仮にこのまま騎士になれたとしても、いずれすぐにボロが出て不正入団が明るみに出ていたはずです。もしそうなった場合、国王を騙した罰として、不敬罪に問われて処罰されていたかもしれませんよ?」「な、何……不敬罪…